荒野を歩け

買ってよかったものや食べてよかったものを書いていくだけのブログです。うそです。雑記帳です。

最強のこれから

ひとつ屋根の下で暮らすようになってから4ヶ月余りが過ぎた。

あれだけ容赦なく首筋へ照りつけていた陽射しもいまは遠ざかり、秋の第4コーナーを曲がって直線をひた走るところである。

 

このたび、来年の1月に恋人と入籍することとなった。

すでに共暮らしを始めているから、変わるのは自分の名字くらいだ。「くらいだ」とさも軽げに言ったが、氏名変更にかかる手続きが多岐にわたることはインターネットの集合知によりご教示いただいた。

婚姻届が受理されればミッション完了だと呑気な恋人に「戸籍謄本を取り寄せられたし」と先手でジャブを打ちながら、当日も私の事務手続きの足としてご活躍いただく予定である。

 

でも、新しい名字になるのが嫌かと問われればそうでもない。むしろやぶさかでもないほうである。

私は昔から、自分の名字が変わることに一定の憧れがあった。幼い頃は結婚の真義については棚上げにして、結婚=新しい名字を名乗ることだと思っていた。

私の生まれついての名字はやや個性的な部類に入る。字面を見れば普通に読めるのだが、口頭だと聞き返されることが多い。使っている漢字にインパクトがあるため、家族のつけられるあだ名はみな同じだ。

また、常用することは少ない漢字でもある。「九川→丸川」のような、結果として別の宛名になってしまった年賀状が届くのが毎年の風物詩だ。(最近はプリント技術の裾野が広がり手書きのはがきが減った。それはそれで寂しい)

そんなわけで「間違われない」という現実的な面においても、今回新たな名前を得ることに関して、個人的には満を持してといった心持ちである。

好きな人と同じ名字を名乗れることも素直にうれしい。一人と一人で家族になるのだなと思う。これから先、入籍後に自分の名字をみずから選べる社会がくることを願う一方で、仮に別姓が認められていたとしても私は多分同じ選択をしただろう。

 

この社会には(いまのところ)、女性に生まれたことで掛けられるいくつかの呪いがあると思う。「年頃になれば男性と結婚するのが当然」であり「未婚である以上恋愛市場に上っており対象とみなしてよい」という観念も残念なことにそのひとつだ。

それを信じる必要も守る必要もないと頭では理解しながら、私はその呪いを解ききることはかなわなかった。なぜなら私は結婚を望んでいたからだ。等身大の私を受け入れてくれ、自分以上にお互いのことを大切に思いあえる家族以外の誰かを見つけたかった。

 

仕事からの帰り道、電車に揺られながら帰宅後に行う家事のことを考える。

まだ暖かいドラムの中で待つ洗濯物を畳み、乾いた食器は水切りカゴから食器棚へと仕舞う。今夜は豚肉と大根の炒め煮。お米を研いで炊飯器にセットしたら、解凍しておいた豚こまに塩こしょうと片栗粉をもみこんでおく。なじむまでの間に大根をいちょう切りにし、ついでに湯豆腐用のえのきの石づきもとっておこう。……順番を組み立てながらふと気づく。

当然のように、私は恋人が玄関を開けてただいまと帰ってくることを信じているのだ。彼の居場所はここなのだと安心している。それは逆もまた然りで、私の帰る場所は彼と暮らすこの家なのだ。そのことに時々涙が出そうになる。

 

私は自己承認が下手くそ、そのくせ自意識過剰なたちで、他者の評価を内在化したまま生きてきた。そのせいでずっと自分に自信が持てなかった。自信がないから一人で立ち続けることに難儀したし、いつまでも他人の視線が気になった。自分がどう見られているか、惨めに見えてはいないか常に気を張り巡らせて消耗していたように思う。

でも、私を見つけてくれた人がいたことによって、私は呪いを解くことができた。婚姻という名の箱を得たからというよりは、自分達の力で暮らす、その営みによるところが大きい。匿名他者からの評価が不要になったいま、誰かの「その他大勢」でもまったく構わないと思えるようになった。

恋人と暮らすようになって、張っていた気が自然と緩んでいるのがわかる。以前なら突風にかき乱された前髪を一秒と待たず直さねば落ちつかなかったが、いまは自転車の向かい風でおでこが全開になってもへっちゃらだ。指毛の処理を忘れてもまぁいいかと思える。生きてるんだし。

「恋愛市場」から下りたことで、いまだかつてないほどQOLが爆上がりした。職務上浮かべた笑顔を、個人への好意と曲解されることを恐れ予防線を張る必要もない。

驚愕の生きやすさだ。ようやく性別というフィルターを取り除き、「人間」としての土俵に立った気さえする。もっと早くこの呪いが解ければよかった。と同時に、この世からこの手合いの悪弊を一日も早く断ち切れるよう価値観のアップデートを続けていく気持ちを新たにした。

 

ずいぶんと長いエントリとなってしまった。主語が自分の話ばかりで恐縮である。

これは現在の私から、過去と未来の自分へおくる瓶詰めの手紙だ。あるいは篝火。いつかの私が出会って、わずかでも呼吸をしやすくする手助けになればいいと思う。

しかし、恋人を「私を呪いから救いたもうたメシア!」的に礼賛するような書きぶりになってしまうのは大変むずがゆい。二人暮らしにおける心境の実態はいささか異なる。

友人の言葉を借りるなら、「ウキウキのちイライラところにより○すぞ」がドンズバで完全一致である。(余談ながらこのセンテンスを目にした際、あまりに言い得て妙で電車内で吹き出してしまった。こんなパワーワードをさらりと繰り出せるウィットをぜひ身につけたい)

待ち合わせをしなくても毎日会えることはうれしいが、掃除に食器洗いにと動き回る私に目もくれず、スマホで延々とYouTubeを見ながらごろごろされると、泡だらけのフライパンを後頭部めがけて振りかぶったろかという気持ちが時折芽生えないでもない。

 

ただ、そんな私に安寧がもたらされたのは、恋人の存在あってこそというのもまた事実だ。

どんな時でも穏やかなのんびり屋で、ゲームを愛し、よく食べよく眠る人である。

 人間をダメにするソファに寝転んでドラクエをプレイする横顔へ向け、心の中でつぶやく。

自由にしてくれてありがとう。

二人旅がはじまるね。「ヒビやシミやズレや穴も 君と見るとわりとたのしいや」。

これからの道行きもまた、素晴らしいものとなることを願ってやみません。

ゆっくりぼちぼち、幸せな平凡を楽しんでいきましょう。